自分から逃げている
自分から逃げている。
そんな行動というのはどういう行動だろう。
例えば、痩せたいのに、食べたくないのに、たくさん詰めて吐いて、肉体的苦しさに頼って本来の訳の分からないしんどい現実から目を背け拒絶しようとしている時とか。
お金を使いたくないのに、貯めたいのに、対して欲しくもないものを買い漁って、とにかく何か買って、手に入れて、ものが溢れている状況とか。
考えれば考えるほど頭が分からなくて、自分がなりたくない方向へ追い詰めることで安心する。
そして行き行先は、苦しい、寂しい、死にたい死にたい死にたい…感情だけ。実際は死ねないから。
そして感情は自分を蝕み、気が付いたら、本当に大切なものが見えなくなって、愛せなくなっていて、最後は何もない現実が怖くてまた怯えてる。
もう嫌になっちゃうよ。
だから、もう一度自分と向き合う努力を始めた。
自分だけの身体を労り、当たり前を見直す。
もしかしたらまた気が付いたら、自分から逃げてるかもしれないけど、すぐに自分に戻って来れるように、意識して大切に大切にするしかないんだと思う。
自分を愛して大切にするやり方が分からないで、蔑ろに苦しんで生きてきたんだから、それしか教わらなかったんだから仕方ない。
頑張る方向をちょっとだけ変える。
そしたらきっと心安心してから笑える時が来るから。
リラックスして癒されている状態であることを頑張る。自分が自分に対する愛しさを感じる、そんな頑張る努力をする。
よし期限を決めて最高に愛してみよう。
誰にも理解されなくても
今わたしにある思考や行動が"今"私の周りにいる誰にも理解されなくとも、非難されるようなことだとしても大丈夫。
わたしらしさは私がいちばん知っていて、そしてその思考や行動に実がなって心から満たされ始めた時、気付くとわたしの周りに居た人は変わっている。
自分の世界を作れた時、
その世界にいる人は変わってる。
居心地が悪い人はいなくなり、
心地よい人だけが残り、そして入ってくる。
そのくらい世界は広いし、わたしが私に絶対な根拠の無い自信を持って堂々としていればその世界は早く完成する。
そして最後に伝えたいのは、あなたは絶対に1人にならないし、あなた自身が1番初めのファンである限り大丈夫。迷いながらも生きているあなたにはきっと既に実が付いている。
軸を持って。それだけ
本も映画も物語は私を表す
部屋に本を積んで置くのも、
映画のレビューを続けるのも、
そして日記をブログを書き続けるのも、
自分がいなくなった時、
私を表現し続けてくれる期待を込めてなのだ。
人というのは死んでしまった人間に興味を持つ。
生きているうちは見向きもしないくせに、死んだ途端にその人を知ろうとする寂しい生き物。
だからこそ、
「こういう人間なんだ」「こんなこと考えられる感性があるんだよ…!」という、自分のことをどこかで知って欲しいという気持ちを、自分がいなくなった世界に期待しているんだ。
天才じゃない小さなゴッホみたいな。死んでからの方が評価されやすいのではないか。
こんなことを思っていたんだ...好きだったんだ..そんな風に感じてもらうために本や映画、そして自分で書き留めてきた書物がある。図書館で借りた自分の感性に触れて来た印象的な本はわざわざ再読する予定もないのに買ったりする。
なんて自己顕示欲のある小心者なのだろうとつくづく思うが、そのおかげで私もたくさんの人の人生を知り、生きている気分になれている。
自分を何かの物語に当てはめないと表現出来ない
見ている世界は心の世界
世の中厳しいな、そう思ったらきっと厳しいのは自分の心なのだ。
自分が自分に対して課している条件が厳しいということに気付く。
できることをやっていれば厳しい世界はない、
無意識の「こうしなければならない」から解放されて、
優しい心を取り戻し優しい世界で生きていたいとわたしは思う。
心が狭い人ばかりだと思うのなら、
心広く生きるように努める。
心広く生きることで損得感情が出てきてくるのなら、まだそれはただの偽善である。
自分が変われば世界が変わる。
意識をすれば徐々に壮大な心を持つ人間が存在していることに気がつくだろう。
一人の人間として生きていくには、この世界は大きすぎる。
見えていないものばかりの世の中で生きているということを自覚する。
世界を変えたいなら自分を変える。
もちろん簡単なことではない。
時に苦しみもがく日々が続くかもしれない。
周りから「幸せ」と思われたいならそう努力すればいい。
でもきっとあなたが生きたいのは自分の幸せの世界の中。
そこには共鳴し合う仲間がいる。
自分が変われば世界が変わる。
見え方が180°変わる絶対に。
この地球で繰り出されている世の中は、
あなたのの小さな脳内で理解できるほど単純じゃない。
理解できない意地悪があるのなら理解できる優しさを見るように努力する。
気づいた時には全く違う世界にいるだろう。
寂しいという感情は誰かに出会うためにある
「寂しいという感情は誰かに出会うためにある」
あるドラマの有名な一説である。
たしかに、「寂しい」は人肌を探しに街へ出るきっかけになるのかもしれない。
その時の寂しい感情は誰かといることで紛らうことは大いにあると言える。
ただ「寂しい」と「寂しい」が結びついているということに気づきせず・・・
そう、わたしたちは「寂しい」から逃げることはできない。
寂しい感情の壺に早くからハマり、長い時間「寂しい」と時間を共にすると寂しいは簡単に私たちを手放さない。そして私たちも手放すことを恐れるようになる。寂しいさんは、人肌という麻薬が体から抜けた時に、「おかえり」と現実を見せてくるものなのである。
寂しいという本来の現実から目を逸らすために誰かを探すのであれば、
わたしは寂しいと共に一人で歩き続けたい。
もしくは寂しいを手に入れてからの年数が同じくらいの人と居たい。
人生に意味がないから意味がある
Twitterで「人生に意味がなくて本当に良かった」と呟いている人がいた。
本当にその通りだなと思った。
所詮いつか終わるのだからこんなに苦しむ必要はない。少し早く死を自ら招いてもバチは当たらないのではないか。そう真剣に考える夜など数えきれないほど過ごしてきた。(いや、夜だけじゃないな、真昼間大勢の人間に囲めれていても考えている時もある)
だけど冒頭の文を読んで思う、どんなに自分の人生が最高でもクソでもどっちにしろ正解という意味が存在しない無意味なこの時間というものがすでに死んでいるも同然なんだ。
もちろんここで「だから適当に生きろ」とか「自分なりの意味を見つけて良い」とかクソみたいなことは言わない。
死んでもいいし生きてもいい。自分は死選んだ時の失敗を恐れて生きているだけ。
1%でも死にきれなかった時が怖い。ただそれだけ、
死ぬことは悲しいこと、自ら死を招くなんて悪いこと
そんな脳みそが足りない能天気なアホたちになるように育てられ洗脳される。
洗脳されなかった少人数を「社会不適合者」と表現されているこの大きな宗教団体のような世間で生きていくことに意味など持っていてたらそれこそ頭が狂ったままあの世に行くことになる。
死を身近に感じながら適当に生きていこうと思う。
美味しいものを食べながら知らない世界を探しながら。
期待を押し殺しながら。
私から何も無くなる前に
自分はあまり長生きしないと思っている。
「短命」である気がしている。
というか、そうであって欲しいと思っている。
家族が生きているうちにこの世を去りたい。
家族と言っても思いつくのは母と父、愛犬もいるけれど愛犬は例外。彼は私が最後まで責任を持って看取りたい、悲しい思いひとつして欲しくない大切な我が子だから。
あと思いつくのは親戚。でもきっと彼らは私が死んでも悲しまない、美化して涙を流している自分に満足されるくらいならどうでもいい。それでも出来れば多く私のことを知っている人が生きているうちに、誰かの特別な存在であるうちに死にたい。
見送らせるなんてズルいじゃないか。許さない。
私は見送られたい。そして悲しんで欲しい。
長命なんて惨めなだけだみんな居なくなる。
今を愛するために短命であることを望む。
それが希望のひとつなんだ。