暖かく生きたい生存日記

執筆/エッセイスト/心理学/ アダルトチルドレン/旅行/小さな幸せ/

ドラマなんて映画なんて物語なんて作れない

漫画やドラマを観て、主人公たちが立ち向かったり、最終的に幸せな結末に至る瞬間に感動することは誰にでもあるだろう。でもね、現実世界はちょっと複雑だ。

 

例えば、有名なアスリートや成功したビジネスマンたちだって、成功の裏には多くの努力と試練が隠れているんだ。マイケル・ジョーダンは高校時代、バスケットボールのチームから切られ、スティーブ・ジョブズは自身の会社をクビにされたこともあった。しかし、さらに深刻なのは、現実では幸せな結末が保証されているわけではないということ。一部の人々は逆境に立たされ、絶望の淵に追い込まれ、自殺や大損を経験し、社会的にも経済的にも弱者として苦しむこともある。そして、この世界は見えない残酷さにも満ちている。

 

だからこそ、精神力が何よりも重要だ。精神的な強さは、私たちが逆境を乗り越え、現実の中で成功をつかむための力強い要素なのだ。精神力とは、困難に立ち向かい、挫折から立ち直る力、ストレスや圧力に耐える力のことを指す。

 

優秀な人が本当に優秀なのか、それはただメンタルが強く意志が強いだけなのではないか、という点も考えるべきだ。成功した人々の共通点は、彼らのメンタルの強さであり、逆境に負けずに努力を続けた意志力なのかもしれない。この複雑な現実を理解することは、私たちにとってさらに重要だ。人間の心理は複雑で多様であり、幸せや成功は一つのストーリーに縛られるものではない。心の健康や精神的な強さを育むことは、成功への鍵としてだけでなく、より豊かな人生を築くための重要なステップでもある。

 

最終的に、漫画やドラマのような完璧なストーリーとは違う現実の中で、現実の深刻さと人間の心理の複雑さを理解し、精神的な強さを持つことが私たちに希望をもたらす道なのだ。成功や幸福は努力と精神力を持ってこそ手に入るものであり、私たちは現実の逆境に打ち勝ち、自身の物語を築く力を秘めている。

 

悪い言葉に染まらない方法

私はタレント/ペコちゃんを尊敬している。あれは数十年前、彼女がまだ無名でごく一部の人間にしか知られていなかった時、私は原宿で彼女を見かけた。ニコニコと楽しそうに歩いていて、声をかけている人間にも優しく対応していた姿は今も忘れない。

 

そして今、悪い言葉に染まらない強い発言力を持っていると強く感じる。

 

そのようなマインドを学ぶことは、ポジティブな影響を受ける素晴らしい方法で彼女のマインドセットを見習うためには、以下のポイントに焦点を当てることが大切だと思う。

 

1. **自己肯定感の強化**: 自分を受け入れる姿勢を持っており、自己肯定感が高いです。自分を大切にし、自信を持つことで、悪い言葉の影響を受けにくくする。

 

2. **ポジティブなフィルター**: ネガティブな言葉やコメントを受けても、ポジティブな視点を持つことが重要で、ポジティブな側面や成長の機会を見つけることで、マイナスの影響を軽減する。

 

3. **共感と理解**: 自分の意見や感情をしっかりと持ちつつも、他人の立場や気持ちを理解することも大切で相手の視点に立って物事を考えることで、コミュニケーションが円滑になる。

 

4. **前向きなコミュニケーション**: 前向きで明るいコミュニケーションスタイルを持つ、自分の言葉で他人を励まし、良い影響を与えることで、周囲の人々との関係を強化する

 

5. **ストレスの管理**: マインドの強さはストレスの管理にも関連している。リラックスや癒しの方法を取り入れることで、冷静な状態を保つことができる。

 

これらのポイントを取り入れながら、ペコちゃんのような悪い言葉に染まらないマインドセットを学び、日常生活に活かしてみることにする。

人の本質。

私はある日から私に蓋をして生きてきた。

蓋をして生き長らえてきた。

 

よく母は「あなたは私が決めてきたこと全て嫌なんだよね!否定するんだよね!」と言う。

なので「何を決めて否定したの?」と聞く。すると1.2個しか言葉で出てこない。しかもそれは全て私が決断したこと。(金を出してくれたということが"決めた"に当てはまるのならそうかもね。)

 

あの人の潜在意識の中で、私の人生は全てあの人、自分が決めたものだと漠然と思っているのだろう。だから私が私を否定するとそういう言葉が出てくる。適当な浅はかな言葉。

 

 

人生は小さなたくさんの決断が数え切れないほどあり、その中で精神的な覚悟、決意がある。そんな決断に見向きもせず、ただ自分の所有物である認識からその所有物かま自己否認していたら、全てを決めた自分自身、飼い主のせいだと漠然と思うのだろう。頭が悪過ぎる。私の人生。あの女の決めた事なんてひとつもないのに。

 

私は私を否定したことは無い。

ただ否定というか、拒絶が正しいのだと思う。

 

1つ否定という、安易な言葉で表現出来ることをあげると、

何度もあの腐った毒に汚染された人間が、「母親」として存在していることに気付いているにも関わらず、母親としての役割を求めてしまい、このような話を何度も繰り返してしまう所だと思う。

 

私は私の人生を生き、好転させてきた。

親のせいで得られなかったもの

沢山諦め、吹っ切れてその方向で努力して来た。

そして今がある。

それは私の力であり、あの女のものでは無い。

 

毒に汚染されると、1番近い自身の子どもには特に所有物のような気持ちになるのだと思う。表に出していなくても、潜在意識が情けない。そんな汚い血を受け継いだ私は蓋をして生き、自分を根本的に拒絶しているというのが正しい。

 

"この会話何回したっけ???"

あの女の解毒は不可能。そんな人間の解毒を期待し、上辺だけで放たれた言葉に喜びたいために何度もこの文章を送り続ける。しかしまた数ヶ月後この薬は消え去り毒に染った手で汚染しようとしてくるのだろう。いつまでも私が立ち止まり、不安定で何かに依存しているとでも思っているのだろう。きっと蓋をしていなかったらそういう人間でもあり、まだ蓋が締まり切っていない時は、究極に死にたくなる時もある。でも受け入れて覚悟を抱え生きている。親を人として見ることを諦め、自分にとって生きやすくなるように道具として見ている。舐め腐った同じ場所で同じ会話をしているのはあの女だけだ。

 

幸せだと言えば「私のおかげ」とでも思うのか。

あーあ、腹立たしい。

生きやすそうで羨ましい。

生きていくには目を逸らすこと

「死にたい」と考えたことがない、もしくは考えていない人は、洗脳されているか自分から目を逸らすのが上手な人間であると思っている。それが良いのか悪いのかは置いといて一つの生きていくための手段として元々人間脳に搭載されているんだ。

 

生きていくにはある程度の自己肯定感自己有効感などが必要だが「この世に代わりがいない人間」なんていない。よく聞くのが、あのスティーブ・ジョブスいなくなってもすぐ有力な人間が出てくるということだろう。されでも平凡な私たちがなぜ生きているだけでもお金がかかるのにせかせか働いて、対人関係に悩んで必死に消費しながら生きなければならないのだろう。寝ることが苦じゃない人にとって死んだ方が楽だ。とここまでは客観的に考えてもわかるはず。それでも大概の人は言う。「その中で感じる幸せとか喜び、楽しさがあるから生きるんだ。」と

 

でもあなたは大して必要じゃないただ一つの生命に過ぎないし、感じる幸せって生きている上でしか成立しないし、喜びって頑張っているから得られる報酬みたいなもの。厳しい先生に褒められると普段みんなに優しい先生に褒められるより嬉しいでしょ?そしてあなたの周りにいるあなたを愛してくれている人はあなたが死んだところで数日悲しんだあとは、なんだかんだ平然と生きていくだろう。そしてその愛が親からなのであれば、その愛は親自身が自己愛の上に作り出したから血を繋ぐものだから愛され、その血が死んだこと、幸せにできなかった自己への責任感に悲しんでいるだけであって、あなた自身を愛しているのかと言ったらどうだろうか?

 

ただその前に立ちはだかる未知の恐怖を感じないように「わたしは必要とされている」「愛されているから悲しませないように」とか必死に理由を見つけ洗脳して生きているに過ぎないんだ。

 

幼い頃から虐待を受けたり家庭環境に恵まれなかった子、環境的に恵まれなかった子など様々な理由で直接罵倒された経験がある人間は「死」を身近に考えるようになる。でもそれはその経験をしたから「死」を考えるようになったのではなくて、良い意味で洗脳が解けたきっかけに過ぎないと感じている。

 

たまに自殺の選択をした人を”愚か”などと呆れた表現をする人がいるけど、その人は洗脳状態のロボットであり、ただ未知の世界を選んだ人間を叩く井の中の蛙のように見えているのはわたしだけじゃないはず。知らない世界をなぜ愚かだとき見つけられるのか。可哀想な人間だ。

 

つらつらと話してきたがこれは、生きることが正しいとか、死ぬことが正しいとか、そう言うことを話しているわけじゃない。ただ、じぶんが当たり前に「生きていること」に対して疑うことのない人間を軽蔑しているだけの話だ。死を学び、死を実感しながら生きていくことを決めている人間と、自分だけを見ながら自分の未来を当たり前に想像し自我自己うぬぼれであることも知らずエゴを愛し続ける人間では違いが大いにあると言うことを記している。

 

そしてそれでもわたしもまだ死ぬのが怖いから、それが自分だけしか思っていないことであっても「わたしは価値のある人間だ」「愛されるべき人間としてこの世を全うする」と思いながら、洗脳されてたままの方が楽だったな〜とか思いながら、自分を愛そう!みたいな本を読みながら生きていくんだ。

どんなときも奥底で泣き叫んでる心

大人になって気付くことがある。

とっても幸せな時間で、

とってもリラックスしていて、

とっても大きな声で笑っていても、

 

私は芯の奥深いところで、

ずっと大きな声で泣き叫んでる。

表には出てこないし、

言葉にできない感情がいつも喚いている。

 

だから少し嫌なことがあったり

不快な出来事に遭遇するとすぐ引っ張られるが、

その心の芯を保護するために極端なほど喧嘩早く、防衛本能が強い脳みそが発達し、持っている感覚もある。

 

 

▷今語っているのは、完全に"脳と心"が別々である前提の話。きっと共同体である考えの方が多いし、共同体なのだと思うけど、自分にはどうしてもその理解が難しい理由の話。

 

 

どんなときも寂しい心、泣いている心を抱えている自分が「死にたい」を手放す方法が分からない。どうして自分がずっと泣き叫んでいるのかも分からない。頭ではこんなに恵まれた毎日なのに、根本的なそんな自分の心の主張が分からない。

 

でもきっと、分かっていた頃もあったのだろう。

大切な時期に、気付かないように頭で抑えつけて来たから今こうゆう大人になったのだろうなとも思う。

 

 

この前鬼滅の刃にも出てきたけど、どんな時も極端に脅えて大声で泣いてる鬼。そうゆうアニメキャラよくいるけどそんな感じ。なんて不幸な生き物なのかと思う。私の場合は芯だけだから表には出てこないのだけど。

 

 

一方でわたしとは逆に、周りには心がいつも笑っていて"楽しい"がベースな人間が溢れているようにも感じる。

 

キツい経験や言葉にするも大変な毎日を送っている人たちも、心の奥底の芯というベースが元気に笑っているから、思考でナイーブになってもショックな出来事だと説明出来ることが起きても、不快な状況に遭遇しても、「生たい」と無意識に心が思い続けていられるのだろう。と

 

 

羨ましい。

 

 

例えば、

どんなに暗くてしんどい物語でもBGMはポップでリズミカルな映画とどんなに楽しいハイテンションな物語だとしてもBGMがとてつもなくどんよりと暗い映画の違いみたいな感じ。

 

それだけでベースの見方が変わってくると思うんだけどそういう感じ。

 

 

きっと自分は"わがまま""感謝できてない""言い訳"

とか表現されてしまうのだろう。でも知って欲しい。そういう人間もいるのだと。

 

頑張るには、生きていくには芯の何故か泣け叫んでいる心を直視し続けるには辛すぎる。だからまた蓋をして気付かないふりをするしかないんだ。

 

 

今日もとっても楽しい一日だったけど、あの蟻のように小さい程にくだらない起きた嫌なことを呪み殺したい感情の方が強い。

 

 

もし誰もが「それはとっても嫌なことだったね」と言えてしまう位の事が私に起こったらどうなってしまうのだろう。心の悲しみが脳の怒りに加担して実行してしまうのではないか。自分を殺すか他人を殺すかという【終わり】という終止符を打つために。

 

 

馬鹿なヤツ

求められなかった人間

母方の祖母は言う。

「離婚する時、𓏸𓏸ちゃん(私)のことを、誰も引き取りたがらなかった。だからママとおばあちゃんで育てたんだよ。ママだけを責めないで」

 

"子は物かよ。😂"

 

今この言葉を投げられて孫の私はどう思うのか。考えなかったのだろうか。

 

大人だから、

「おばあちゃんもお母さんを守りたいんだなあ」とか

「何も知らないを良いことに私が父親の肩ばかり持つから悪く言ってしまうんだろうな」

とか、

 

相手の気持ちになって考え、

そして自分を守る理由ができる。

そして必死に飲み込む。

 

(まぁ父方の祖母にも欠陥人間と言われり、私とは一緒に住めないとハッキリ言われたこともあったけど笑)

 

でもその必要ってあるんだろうか。

 

精神科の先生に、言われた。

 

"あなたと母親は関係において対等じゃない。母親から見たらあなたは子どもであり、守られるべき存在なんだよ。それが当たり前なんだよ。

 

そう言われた。

ただ一人罪悪感を感じる必要なんかない。

 

怒っていい。

そしてちゃんと悲しみなさい。"

 

 

「引き取りたがらなかった?」「産んだの誰だよ」「拒否したくせに孫孝行しろ?」

 

祖母が放った言葉が心から本当なのか分からないよ。と大人のわたしは私に言うし、してもらったことに対して感謝して、あとは自分を慰める。

 

それしか出来ない。

 

そしてそんなようなことを改めて言われたことをきっかけに、親や家族との関係において哀しみの行き場が無いことを痛感している。

 

特に子どもの頃なんて、さぞ辛かっただろう。うん。辛かった。きっと今も1人泣いてる子がどこかにいる。声を押し殺して泣いてる子が。

 

家族というものが、団体ではなくて、個体に見えている。父さんにも母さんにも染まっちゃいけない感覚はとても孤独なんだずっと。

 

だから親じゃなくても、家族じゃなくても、

「大丈夫だよひとりじゃないよ。辛いよね」と言える大人になりたい。なる時が来るかな。そうなりたいな。

 

 

ENDROLL

どんなに酷いことを言われても、悲しいことを言われても、家族を嫌いになるのはとても寂しいことで不幸は絶対願えなくて。本当は誰よりもみんなで仲良く手を繋いでいたい願望に固着している。本当は。でもそれじゃあきっと私たち親子は“バッドエンド”になってしまうから。頑張って離すんだ。

 

大丈夫。

 

あぁ、本当にカッタルイけど。ハンデがあるんだからもう少し若者でいられる期間を伸ばして欲しいねッ^_− ☆

常に羽を感じて

みんなの背中についてる大きな羽、それは少し重たい。

 

錆びついて動かなくなっている人や軽やかに踊るようについている人、

綺麗なまま縛り付けている人、人の数だけ様々な羽を見る。

 

ちなみに私の今ある羽を言語化するなら、

「大きく数時間の間隔で動いているものの上下に揺らすことができない羽」という感じ。

 

空を舞う力も折り畳む度胸もなく、リラックスして付いてるわけでもない。

どこか力んでいて日々を歩く中で負担に感じる時がある。

 

この羽さえなければ、それか折りたたみ動かさず錆びてしまえば、

狭い世界を歩きやすいのか。

不安、悲しみ、好奇心さえもこの羽がなければ感じることなく

ただ歩き続けることができる気がする。

 

SNSで繋がれた人間関係にも何も疑問に、そして不安に、

そして承認さえも持つことなく安心して抱きしめることができるのだろう。

 

そんなことを考える。

 

でもわたしは多分、これから磨き続けることは辞めない思っておる。

一歩一歩少しずつ手入れしながら、

時に閉まって、たまに動かしてみたりしてそんな風に育てていきたい。

まだ、まだ、持っている羽を抱きしめたいと思う気持ちはあるから、