暖かく生きたい生存日記

執筆/エッセイスト/心理学/ アダルトチルドレン/旅行/小さな幸せ/

生きていくには目を逸らすこと

「死にたい」と考えたことがない、もしくは考えていない人は、洗脳されているか自分から目を逸らすのが上手な人間であると思っている。それが良いのか悪いのかは置いといて一つの生きていくための手段として元々人間脳に搭載されているんだ。

 

生きていくにはある程度の自己肯定感自己有効感などが必要だが「この世に代わりがいない人間」なんていない。よく聞くのが、あのスティーブ・ジョブスいなくなってもすぐ有力な人間が出てくるということだろう。されでも平凡な私たちがなぜ生きているだけでもお金がかかるのにせかせか働いて、対人関係に悩んで必死に消費しながら生きなければならないのだろう。寝ることが苦じゃない人にとって死んだ方が楽だ。とここまでは客観的に考えてもわかるはず。それでも大概の人は言う。「その中で感じる幸せとか喜び、楽しさがあるから生きるんだ。」と

 

でもあなたは大して必要じゃないただ一つの生命に過ぎないし、感じる幸せって生きている上でしか成立しないし、喜びって頑張っているから得られる報酬みたいなもの。厳しい先生に褒められると普段みんなに優しい先生に褒められるより嬉しいでしょ?そしてあなたの周りにいるあなたを愛してくれている人はあなたが死んだところで数日悲しんだあとは、なんだかんだ平然と生きていくだろう。そしてその愛が親からなのであれば、その愛は親自身が自己愛の上に作り出したから血を繋ぐものだから愛され、その血が死んだこと、幸せにできなかった自己への責任感に悲しんでいるだけであって、あなた自身を愛しているのかと言ったらどうだろうか?

 

ただその前に立ちはだかる未知の恐怖を感じないように「わたしは必要とされている」「愛されているから悲しませないように」とか必死に理由を見つけ洗脳して生きているに過ぎないんだ。

 

幼い頃から虐待を受けたり家庭環境に恵まれなかった子、環境的に恵まれなかった子など様々な理由で直接罵倒された経験がある人間は「死」を身近に考えるようになる。でもそれはその経験をしたから「死」を考えるようになったのではなくて、良い意味で洗脳が解けたきっかけに過ぎないと感じている。

 

たまに自殺の選択をした人を”愚か”などと呆れた表現をする人がいるけど、その人は洗脳状態のロボットであり、ただ未知の世界を選んだ人間を叩く井の中の蛙のように見えているのはわたしだけじゃないはず。知らない世界をなぜ愚かだとき見つけられるのか。可哀想な人間だ。

 

つらつらと話してきたがこれは、生きることが正しいとか、死ぬことが正しいとか、そう言うことを話しているわけじゃない。ただ、じぶんが当たり前に「生きていること」に対して疑うことのない人間を軽蔑しているだけの話だ。死を学び、死を実感しながら生きていくことを決めている人間と、自分だけを見ながら自分の未来を当たり前に想像し自我自己うぬぼれであることも知らずエゴを愛し続ける人間では違いが大いにあると言うことを記している。

 

そしてそれでもわたしもまだ死ぬのが怖いから、それが自分だけしか思っていないことであっても「わたしは価値のある人間だ」「愛されるべき人間としてこの世を全うする」と思いながら、洗脳されてたままの方が楽だったな〜とか思いながら、自分を愛そう!みたいな本を読みながら生きていくんだ。