暖かく生きたい生存日記

執筆/エッセイスト/心理学/ アダルトチルドレン/旅行/小さな幸せ/

生きているということは寂しいということ。寂しいということは生きているということ

寂しい。寂しい。

寂しくて悲しくてでも原因は分からなくて、

何かを補えばこの心底にある悲しさが

無くなってくれる訳じゃなくて。

 

この悲しい気持ちはずっと私に付きまとう。

でももしそれが生きているという事ならば、

ちょっとだけ納得ができる気がした。

生きているから悲しいと思う。

 

この寂しい気持ちも生きている時だけ感じられる気持ち。私が私でいるから感じている気持ち。

自分以外の誰かと生きることを共有している、寂しさを見ていないで呼吸をしていた経験をした事があるから寂しい感情を理解できる。

 

わたしは私とずっと一緒にいる。

それでも感じてしまうこの感情は、

きっと生きることは寂しいということで、

寂しいということは生きて呼吸をしているということで、死ぬまでの寂しさを大切に味わうのもあり

世界でひとりぼっち

私は世界でひとりぼっち

暗く陰に隠れていればいい

 

そう思うと心が楽で落ち着く。

欲に期待、心の温かさを求めると悲しくなる。

何も求めない淡々としている自分は居心地がいい

 

それなのに太陽は愉快な心を目覚めさせる

ポカポカとか表面から温めてくれる

楽しく明るい気持ちになってしまう

 

君がいない時私は落ちる

楽しさなんてないこなすだけの予定たち

それで良いのに

太陽が出ると意味もなく誰かと笑って歩きたくなる

 

 

そんな気持ちを知るから欲が出る

 

要らない

 

もういいから、辞めて欲しい

私のせいで

私のせいで…

こう思って生きてきたことが多かった。

 

小学生の頃母に

「お父さんは男の子とキャッチボールするのが夢だったんだって、男の子だったらまた違って離婚しなかったかもね~」と言われた。

 

その時から私は、男の子のように活発になれば良いと思った。サーフィンも積極的にするし、たまに会う父の前では海っぽいズボンばっかり履いてた。分かりやすく喜んでくれるから。

 

 

でもだんだん心がついて行かなくなってしまった。だから勉強を頑張った。後ろから数番目だったのに半年で上から数えた方が早くなった。

それでも「周りが馬鹿だから当たり前だ」と言われた。

 

心が頭についていかなくなってしまった。

どうしたら良いのか分からない。

それでも心を犠牲にしないと私は生きられない

そう思った。 

 

時に父は私に話した。

「公園でお弁当広げて食べる家族いいよね~」

その度に 、私のせいで叶えてあげられないんだと思うようになった。

 

私が男の子になりきれなかったから、

病気なってしまったから。

どうすることも出来なくて、

死んでしまえば楽になるのに。と願い続けた。

 

それでも今でも感じる

"何者かになって欲しい"という圧

 

○○になったら?

○○になったら?

可能性を期待されている気持ちに勝手になる。

苦しい。

 

 

私のせいで家族が壊れて、

私のせいで親は悲しんでる。

 

私のせい…私のせい私のせい……

 

 

今なら分かる。

「私のせいじゃない」

 

よくやったよ頑張ってきたよ。

あなたは凄いよ戦ってる。

そう言って抱き締めてあげられているはずなのに

 

 

幼少期に抱えて吐き出せなかった感情を

ずっと心にもやもや抱えていて、

誰かが私を責めるの。

 

そんな不安定さを抱え続ける自信もなくて、

怒って泣いて立ち止まる。

 

「この悲しさはきっと逃げるための言い訳だ」

 

そしてまた立ち上がる。

でもやっぱり足は上手く動かなくて、

誰かに伝えようとしても分かって貰えない。

 

甘えんな。

 

 

誰も分かってくれないんだって

ひとりなんだって実感した時、

私はまた親に助けを求めようとする

きっと私の家族だから解決策出してくれるはず

 

 

バカみたいな期待と絶望の繰り返し

辞めたい。

頑張ってるねって言って欲しいけど

めんどくさい。

「頑張ってるね」もただの頑張ってるじゃなくて、

難しい事をやり遂げていて凄いという意味。

 

その先に期待とかは、重いからしないで欲しい。

ただ"今"あなたがしていることはみんながみんなできる事じゃないよ!くらいのニュアンス

 

人間として生きてるだけでも本当は凄く凄く褒められるべきなのに、

当たり前となってる世界で頭一つ出ないといけないと思ってる。

 

でもその頭一つの価値観や重さって人それぞれ違うから

みんなに「認められる」って難しい。

無駄な努力で馬鹿だと言う人もいるだろう。

 

なのにどうにかより多くに賞賛されたくて、

でもその賞賛はとても不安定で定まってなくて、

 

結局自分が求めた自分を賞賛し続けられないと私たちは「一生幸せになれない」と

 

分かっていても他人を求めてしまうのが人間なのかもしれない。

ここ数日私の心と頭が無な理由

ここ数日私の心は何も感じず、常にぐるぐるしやすい頭の中は真っ黒な映像がずっと流れているようだ。

 

今までだったら「なんか自分またおかしい」と自分を疑っていたかもしれないが、今はより客観的に見えるようになったので分析していく。

 

最近昔の友人と会うことが増えた。

昔話をすることが増えた。

 

自分には自分のために記憶を消した感情や期間が存在する。思い出は燃やす事で消し、記憶は大きな箱にしっかり鍵を固く閉めて心に閉じ込めた。

それでも今の私があるのもその時期があったからと肯定的に思えるようになったのも事実だ。

しかし消すほどの辛かった過去があるのも事実で、今では1割ほどしか思え出せない。それでも昔の友人と会うことでそして興味本位で当時を尋ねられる事で無意識にその鍵を緩めていたのだと思う。

 

 

だから私の心と頭は閉じ込めたはずの"辛さ"と"トラウマ"が漏れていている状態を察知し、意識的に感じないように麻痺させているのだと思う。私は私を守る為に必死に機能してくれている。本当に人間の心理は面白く優秀だ。

 

 

過去の自分も今の自分も必死に生きようとしてくれている。

 

 

 

"生きたい"と思う私も

"死にたい"と思う私も

全て私でどの自分も否定しない。

 

 

外部からの影響からどのように対処していくかは自分を信じていれば大丈夫だとおもっている。

 

 

「過去のあなたが最高だったから今の最高のあなたに出会うことが出来たありがとう」と言ってくれた友人に感謝して、そして今まで生きた自分自身を信じて今後を見ていきたいと思う。

自分の常識

人は皆それぞれの常識を持っていて、

それが「普通」と思い込みコミュニティーに属していく。

 

自分が見つけたコミュニティーが世界のような感覚の中生きている。

自分で作り上げた“今”を生きているのだという自覚を失った途端に”今”は当たり前へと変化する。

 

そしてその当たり前を持たなくなった自分や持たない選択をしている他人を「異常者」「普通ではない」と決めつけるようになった時”生きにくさ”を感じるようになるのだと思う。

 

私の普通は他人の異常であり他人の普通は私にとって異常なのである。

コミュニティーとは周りの友達や仕事の同僚。

自分の周りを形成している人だけで成り立っていること、

そしてその人たちは自ら選択しているのである。

 

違和感を感じた時にはいつでも生きる世界は変えられる。

小さな小さな世界が連なって漠然としたコミュニティーを作っている。

そしてその世界は想像以上の数がある。

自分の小さな小さな世界を少しずつでも変えるだけで、

自分のにとっての大きな世界への感じ方は180度変わるのだろう。

 

 

私にとっての”今”の世界って何だろう。

「普通」って何だろう。

「生きやすさ」「楽しさ」って何だろう。

 

もしなんとなくでも見つけることができたら仲間を見つけたいと思う。

そしてコミュニティーに入りたい。

迷いながら生きていくのは苦しいけれど、

仲間がいるだけで変わると”私の小さな一つの世界は嘆いている”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本当に強い人

私が思う本当に強い人とは、

許すことができる人だと思う。

 

私は怒りに支配され、たくさん人を傷つけてきた。

それも大切な人ばかり。完全な甘えである。

 

でもその大切な人はそんな私を許して優しく呑み込んでくれた。

もちろん悲しかっただろう。

でも反発することなく静かに悲しい顔をした。

 

 

他人にされたひどいことを忘れる必要はない。

手放すか手放さないかは被害を加えられた人が決めること。

 

でも私はいつか切羽詰まった大切な人の言葉が刃物だけでも、受け入れられる器が欲しいと思っている。他人から嫌われることを恐れ、嫌われない自信のある大切な人だけを傷つけてしまう私には程遠い話だが。

 

人間の脳は単純だ。

人に向けた刃物のつもりでも自分が言われているように脳は理解しているらしい。

 

”「お前が悪い」と向けた指の残り本は自分に向いている”

 

こんな言葉がある通り私は自分に刃物を向けないためにも

誰かを傷つけようとする行為は愚かだと、弱い生き物のすることだと肝に銘じたい。