私を縛り付ける私
みんな気付かぬところで自分に縛りを付けている。
「こうするべきでは無い」「こうあるべきだ」
例えば簡単なわかりやすい例だと「ご飯のあとは歯ブラシをするべきだ」みたいに。けれどこれが日常になれば、縛りとも感じず当たり前な行動になっていく。
でもそれがもし自分を苦しめていたら?
今考えたところで、自分が自分を縛り付けている感覚はない人がほとんどだと思う。例に出した歯ブラシが苦痛になっている人は少ないと思うが、気付かぬところで自分に決まりを沢山作っている人は多いのかもしれない。
そして今回疑問に思ったのは、
この無意識の決まりの「無意識の苦痛」について。
私は英語が話せるようになりたくて英語の勉強をここ数年している。
初めは話せるようになりたい!英語の勉強楽しい☆という自分にとって人生を豊かにする楽しい要素だった。けれど最近では「あ、また今日も勉強出来なかった」「私本当に話せるようになりたいの?甘えているだけじゃん」「何も成し遂げられないのかよ。もうヤダ一生話せないまま自分なんて嫌い」こんな風に考えていた。
英語を勉強する=習慣
に出来ていた自分をまず褒めるべきであり、
その習慣は生きる上での楽しい要素のはずなのに私はその楽しい習慣を重荷にしていた。
とりあえず問題集を進める。
進んだ問題集を見て安心する。
この繰り返しで、
楽しいどころか全く頭にも入っていなかった。
私の楽しい要素の無意識の決まりは、学校での宿題ではない。自由である私は、今自由に楽しい課題を選択出来て自分の笑顔の為に自由に頑張れる。
それは自分のやり方で自分のペースで。
誰かに見せ評価される努力がしたい訳じゃないのに。自分の楽しい実を着実に育てて自分の一部にするための努力なのに。無意識の目に見える自分を評価する考え方が私を苦痛にさせ、何も身についてなかった。
ソーシャルネットワークが進化している今、美談は沢山飛んでいる。けれどその美談は参考程度で私には関係ない。いつか自分なりの美談を笑って作れば良いだけで、飛び交う美談通りに歩む必要は決してない。
私の今頑張っている習慣は自分の楽しい✩.*補助輪みたいなもので自分を苦しめるものではないはずだ。
責める要素がある習慣は私を幸せにしてくれるのか。
無意識に頑張っている事が沢山ある私。あなた。
無意識の常識や決まりを守り
生きている自分をもっと褒めて生きていきたい。
そして、私は私の楽しい実を着実にゆっくりと育ててみることにした。その楽しい源として作られた習慣を強く縛り付けて無意識に首を絞めることはもう無いだろう。